会長の”三行日記”

2011.05.18

清水寺貫主・森清範氏講演よりその2 No.2010

清水寺貫主・森清範氏のお話の続きです。清水寺が北法相宗ということは前回お知らせしましたが、1200年もの長い年月を掛け、庶民信仰として位置づけられているとのことです。
 
拝むのは観音様であり、多くの人の対象となっているわけですが、法華宗では観世音、また般若心経では観自在として知られています。この観世音の観という字が私(主観)ということを表わし、また音が環境(客観)を意味しているとのことです。
 
この世という字を挟む、観と音から観音様と呼ばれているわけですが、観と音の2元が一体となったとき心が通じ合う慈愛の心(慈悲心)が生まれると言います。
 
また佛(仏)とは本来、現地語ではアラヤ(蔵)と呼ばれ、過去の経験がいっぱい詰まっていることを意味しているそうです。また雪がヒマということから、雪が豊富な所としてヒマラヤが名付けれているとのことです。
 
それから、よく知られている曹洞宗開祖、道元禅師が言われる「本来の面目」という言葉の意味を説明されていました。私のお父さんやお母さんが生まれる以前はどうだったのかという、本来具えている真実のすがたについて触れていたのです。
 
春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪きえで(さえて)すずしかりけり」という、その和歌集の一首があります。花は桜、秋の月というのは本来仏様を意味しているようですが、夏のほととぎすと冬の雪と併せ、季節を象徴する大自然との一体を詠まれた歌と聞きます。
 
そうした大自然に対し、こちらがどうこうあって欲しいという我のある心ではなく、それらをあるがままに受け取る純粋な人間性や心があれば、心も爽やかでわずらいがないという意味のようです。
 
またそれは鏡のようなものであり、柔軟心と呼ぶのでしょうか、本来の面目が現前していると言われます。また本居宣長が「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花」と、日本人の心を詠っている通り、我のない心が求められているものです。
 
今回の大震災に対しても、管主は被災地に向け「」という一字を書いて送ったそうです。それはお互いが尊い存在で、思いやりのある、生まれつき持っている心を意味しています。
 
また絆創膏という語にも使われているとおり、ボンドの意味で切っても切れないものです。今回運悪く、東日本の方々が大災害に見舞われてしまいましたが、被害に遭っていない私たちにとっても、とても他人事ではなく、この絆で結ばれていることを示さなければなりません。
 
それが森管主の言われる、人間として本来の面目を養っていくことになるものと思っています。