会長の”三行日記”

2013.05.31

意外な一面 No.2402

 サンミュ-ジックの創業者で会長の相澤秀禎さんという方が亡くなられました。桜田淳子さんや酒井法子さんなど、多くの人気芸能人を輩出したプロダクションの辣腕家として知られた方です。

この相澤さんにとって、特に思い入れが強かったのが、あの松田聖子さんだと言われています。聖子さんと聞くと、結構ミ-ハ-的で、ぶりっ子などのあだ名で知られていることから、典型的な芸能人だと思われるかもしれませんが、意外な一面を知らされました。

相澤さんが聖子さんと出会ったのは、彼女がまだ高校3年生の1979年の5月ことです。レコ-ド会社のオ-ディションに合格していたのですが、相澤さんは翌年、既にデビュ-させる歌手を決めていたので、高校を卒業してからいらっしゃいと、一度福岡の実家に帰したのです。

しかし再び相澤さんの前に現れたのは、それからわずか3ヶ月後のことです。先生にもしっかりと話し、分かってもらって高校はやめてきたと、デビュ-を懇願してきたのです。

元々聖子さんの才能を見出していた相澤さんでしたので、その強い思いにより一層惹かれていったと言います。こうして翌年4月に見事、デビュ-を果たし、それからは瞬く間にトップアイドルの座に就いていったのです。

住み込み時代のことを相澤さんはこう語っています。「毎朝5時半に起きて、ぼくと一緒に走るんです。走りながらいろんな会話をする。タレントとしての心構えや一般常識、マナ-から人との関わり方まで、何でも思いついたことを話す。 

途中、鎮守さまに寄って手を合わせるんですが、聖子は“毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します”と声に出して言っていましたね」。そのくらいですから、手塩にかけていた彼女は特別、可愛かったのでしょう。

ところがその後、海外進出を狙うレコ-ド会社と、相澤さんの方針の違いにより、聖子さんは育ての親の元を離れることになってしまうのです。そのとき、何度も相澤さんのところに電話を掛けてきたのですが、悪いと思っていながら一度も電話に出なかったと言います。

その電話は離れてしまう育ての父への罪悪感から、いてもたってもいられぬ気持ちでかけたものだったのでしょう。相澤さんにとっては、わが子が飛び立つことに言い知れぬ失望と寂しさを抱えていたからです。

こうしてその後、一度も言葉を交わすことのないまま、絆を断ってしまったのです。それから17年後の2006年12月のこと、聖子さんのディナ-ショ-のチケットを知り合いに頼まれた相澤さんは、気まずい思いでマネ-ジャ-に電話を入れました。

そうしたところ、「本人が相澤さんにディナ-ショ-に来て下さい」と言っているとの、思わぬ言葉が返ってきたのです。17年の空白の歳月はそんなに簡単なものではなく、気が重く強張る脚をやっと進めながら何とかショ-の席に着き、複雑な思いでステ-ジを見つめていたのです。

そしてショ-の最中、予期せぬハプニングが待っていました。「今日は育ての親の相澤さんが来てくれました」と、満員の観客に向かって聖子さんが語りかけたのです。この言葉で17年間のわだかまりはいっぺんに解け、楽屋に駆けつけた相澤さんに気づくと、聖子さんは大粒の涙をこぼしたそうです。

相澤さんの方も、「ごめんな、聖子」としか、言うことができなかったそうです。こうして抱き合う二人は17年の断絶を涙でとかし、その後、聖子さんはサンミュ-ジックと業務提携を決めたとのことです。育ててくれた恩をしっかりと持ち続けていた、聖子さんの意外な一面を垣間見た話でした。