会長の”三行日記”

2014.12.10

掃除道 No.2659

 イエロ-ハットの鍵山秀三郎さんの掃除道という本の中に、こんな話がありますので紹介します。

中国の大学のトイレ掃除の後、学生さんと先生を対象に講演させていただきました。その後の質疑応答で、生徒から質問がありました。そのなかの一つ、立派な体格をした学生からの質問は

「私は大きなことをやるために大学へ来て勉強しています。掃除のような誰にも顧みられない小さなことにこだわっていては、大きなことができないのではないでしょうか」というものでした。 

そこで私はその学生に、「あなたは、大勢の人が見ている前で、道に落ちている一本のタバコの吸殻を拾うことができますか」と尋ねたところ、「拾えません」「恥ずかしいから、とてもできません」という返事でした。 

「私は、毎朝、大勢の目の前で、ゴミ拾いをやっています。なんとなく気恥ずかしいのはわかります。その人たちの足元に落ちている吸殻を拾うには、相当抵抗があります。しかし、人間というのは、そうした抵抗を超えていくことで心が鍛えられ、より成長できるものだと思います。

ですから、吸殻を一日に少しずつでも拾って歩けば、そのたびに大きな勇気が得られることになります。 私は、この吸殻や空き缶などをただ拾うことだけが目的ではなく、日本をゴミ一つない国にしたいと思っています。

これを小さなことだと思いますか?」と尋ねました。学生は即座に「大きいことだと思います」と明快にいってくれました。 「そうでしょう。やっている行為は小さく見えても、実は大きな意味があるんです」とお話ししました。

小さなことでも、それを実行するには大きな勇気が要ります。ですから、道に落ちているゴミも、日々自分を鍛えてくれる大事な条件だと考えることもできるのです。 

まさにこの話は禅の哲学で知られた、安岡正篤先生がよく使われる「一小燈、一隅を照らす」という言葉そのものです。一人一人がたとえ小さくても、一隅(片隅)を照らす生き方を貫くことによって、全体が輝き始め、世の中は良くなっていくという教えです。

時代の豊かさにあぐらをかき、周囲を見渡しても腹立たしいことがいっぱいあります。そうした多様な時代だからこそ、今一度自分の足元を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。なぜ「自分だけが」ではなく、「せめて私達からでも」でないと、世の中、いつまで経っても良くはならないものです。