会長の”三行日記”

2014.12.24

人身受け難し No.2666

 最近は忙しさにかまけて少しご無沙汰しているのですが、月に1回開かれる座禅の修養会で唱えるお経の中で、三帰衣文というものがあります。その冒頭に「人身受け難し、今すでに受く」という一節があります。

この意味を何も知らずにただ唱えていただけですが、先日あるところでちょっと教えてもらいました。以下のようなことらしいのです。

人間として生まれようと思って生まれた人は誰もいません。また命を保証された人もいません。つまり危うい命を生きているとも言えます。従って「あたりまえ」と思って人間として生活していることが、実はたいへん有難いことだと言われるのです。

確かに私たちが今こうして当たり前のように生きていますが、その起源を考えてみると、到底その真相にはおぼつかない、実に深いものがあるわけです。

生まれてくる親を選べるわけでもなく、果たしてこうして日本人として生まれてくることができるとも限りません。またそれ以前に人間かどうかも判りません。

ですからこうした現実を否定的に捉えるのではなく、ありのままで生かしていかなければいけないというのが、その教えではないかと思われます。次のように説いていました。

今日も朝起きて、食事をして、少しの用事をこなし、夜には眠るあたりまえの生活を過ごしています。しかし、私が生きて、今ここに生活していることは、目に見えない様々な縁が整っていなければ叶わないことなのです。

何かのきっかけで、あたりまえと思っていた生活があっという間にくずれてしまうこともあるのです。私たちは「あたりまえ」という自力の思いで生活しています。でも生きている事実は不可思議であり、有ることが難しい中を生かされている他力なのです。

「あってあたりまえ」の自己中心のはからいを超えて、「おかげさま、ありがとう」の仏の眼をいただきたいものなのです。このように皆が考えるようになると、世の中ずいぶんと変わるのではないでしょうか。私もせめて一日1回は「ありがとう」の言葉を出せるよう心がけています。