会長の”三行日記”

2012年01月

2012.01.17

逃げ出した船長 No.2137

イタリアで座礁した豪華客船コスタ・コンコルディア号の話です。地中海クル-ズの途中、イタリア中部ジリオ島の沖合で座礁した、この船の船長が何と真っ先に逃げ出していたというのです。
 
事故が起こったのが夜の9時半過ぎだっただけに、4200人もの乗員乗客を乗せていた船の中は灯りも消えて大パニックだったみたいです。大声で泣き叫ぶ人がいても、乗員はノ-・プロブレムと言って誘導すらしなかったと言います。
 
また救命ボ-トには大勢の人が群がったため脱出が取り止めになったり、我先とばかり2階上のデッキに上るはじごに200人ぐらいが殺到したそうです。
 
それも女性と子どもが先だと誰かが叫んでもお構いなく、いい年をした老年男性が我先に登ろうとして引きずり下ろされ、激しい喧嘩にまでなっていたと言います。
 
こう聞くと、映画「タイタニック」よりもっと醜く凄まじい状況のように思えます。こうして座礁から6時間余り経ってようやく沿岸警備隊の船で救出され、ジリオ島に上陸できたというのです。
 
そして何よりも一番酷いのはこの船の船長が、こうしたドサクサの4時間余り前に脱出していたと伝えられていることです。船と運命を共にすると言って、自室にこもって覚悟を決めたタイタニック号の船長とは全然違った、全く情けないものです。
 
また乗客より先にジリオ島に非難している船長を見つけた沿岸警備隊関係者から、船に戻るよう、とがめられても、戻ると答えておきながら、とうとう戻ることはなかったと言います。
 
何ともお粗末な話です。さらにこの座礁の原因も、船長の指示で乗組員に島を見せようと、島に近づき過ぎたからとも言われています。まったく何をかいわんや、あきれ返って言葉も出ません。
 
よく窮地になると人間の本性が露呈すると言われます。女性や子どもを押しのけ、我先にと逃げ出した輩も同様でしょう。実話に基づいたとも言われていますが、映画「タイタニック」号が海の底に沈むまで、乗客に少しでも安心をと、演奏を奏でていた楽団の人たちのことが思い出されます。
 
何が起こるか全く判らない現世ですが、何が起きても慌てふためくことのないよう、一大事の中でも周囲を思いやれる人になりたいものです。

2012.01.16

着信音の妨害 No.2136

毎日寒い日が続きます。昔は二番正月と言っていたのでしょうか、その期間も過ぎ、正月気分の残っていた世の中はすっかり平常モ-ドに戻ります。気合を入れてこの寒い冬を乗り越えたいと思っています。
 
さて公共の場においての携帯電話使用については、相変わらず改善の動きが一向に見られません。電車の中でも辺りにお構いなく通話している人も見掛けますし、駅の地下道などでも、歩きながらそれとにらめっこしている人も少なくありません。
 
海外から伝わってきた、そんな携帯電話の着信音が引き起こしたニュ-スに少し驚かされました。何とあの名門のニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のコンサ-トの最中に、携帯電話が鳴り響き、演奏を中止してしまったというのです。
 
曲はマーラーの交響曲第9番で、最後のクライマックスを過ぎて、静寂の中に繊細な音楽が奏でる、タイミング的には最悪の場面だったと言われます。
 
携帯が鳴っていたのはステージ左側の最前列に座っていた高齢の男性でしたが、この男性は身じろぎもせず、その着信音は3~4分あまりも鳴り続けたとのことです。
 
音に気付いた指揮者が手を止めて演奏を中断し、会場には着信音だけが響き渡ったそうです。そして指揮者は携帯の持ち主に向かって「終わりましたか?」と尋ねました。
 
しかし持ち主からは返事がなかったため、「結構です、待ちましょう」と言い、指揮棒を譜面台の上に置いた後、着信音はさらに何度か続いてようやく鳴りやんだと言います。
 
そして指揮者のギルバート氏が「通常であれば、このような妨害があっても止めない方がいいのですが、今回はひどすぎました」と断った後に、オーケストラの方を向き、「118番」と指示して演奏の再開を促し、観客からの拍手で続けられたとのことです。
 
如何せんひどすぎますね。オ-ケストラはこうした演奏に命をかけているといっても過言ではないでしょう。静寂の中に繊細な響きを奏でる、いわば聴かせどころとも言える場面です。
 
それがたった一人の不注意のためにぶち壊しになってしまったのです。少なくともこうした芸術を味わう感性を持ち合わせている人なら、なぜ?と首を傾げたくなるものです。
 
とにかく、このケ-スは一番迷惑を掛けてしまった代表的なものになると思われますが、多かれ少なかれ、不注意な携帯音が周囲に迷惑を掛けていることには違いありません。公共の道徳を守り、周囲への配慮に心がけたいものです。

2012.01.13

あったかいお正月 No.2135

あったかいお正月」という、ちょっと良い話を新聞の投稿で見つけましたのでご紹介します。いつまでも忘れないで思ってくれている人がいるということは、本当に嬉しいことです。
 
「お正月はどう過ごされていますか」。息子の友人の一人から突然、電話をもらったのは昨年10月。遊びに来てくれるのかなと思いながら、「家でのんびりしていますよ」と答えると、「今年はお父さんと二人で温泉でのんびりしてきてください」と言うのです。

実は息子は15年前、日本語教師をしていた異国の地で、不本意にも29歳の若さで亡くなりました。それ以来、全国各地でそれぞれに暮らす息子の友人たちは、命日に、順に生花を贈ってくれます。

息子のことを覚えてくれている人がいる、それだけで親としてうれしさでいっぱいです。彼らは浪人時代の1年を東京の同じ下宿で支え合い、励まし合って過ごした仲間です。その間に強い絆が生まれたのでしょう。

結局、彼らにもらった旅行券で、年末に県内の温泉に一泊させてもらいました。夫と、娘夫婦と孫3人とで、本当に久しぶりの旅でした。温泉の温かさと、人の温かさが身にしみました。

「ママ、甘え過ぎじゃない!」。あの世から息子の声が聞こえてきたような気がしました。私たちのことまで気遣ってくれる彼らに、感謝でいっぱいです。

 
本当にあったかいお正月になりましたね。15年も経った今、こうして残されたご両親のことまで気遣ってくれるのは、亡くなられた息子さんとその友人の方々が、よほど強い絆で結ばれていたからでしょう。
 
私は一度も経験がありませんが、暮れから正月に掛け、のんびりと温泉にも浸かりながら好きな山登りなどできたらいいでしょうね。来年はちょっと、それができるよう心がけてみたくなりました。

2012.01.12

自分らしく No.2134

今朝は今年一番の冷え込みだと言われているとおり、富士山の手前に位置する愛鷹山までうっすらと雪に覆われています。また昨夜、久しぶりのお湿りとなった雨の影響で、外に出してあった車は全面、凍り付いて、お湯の出番がなくては始動できなかったくらいです。
 
このとおり、いよいよ冬本番なのですね。温かい我が地域がこんな状況ですから、被災地の北国・東北ではさぞかし大変なことでしょう。いち早い復興と、一日でも早い春の訪れが望まれるものです。
 
さて昨日、一昨日と新年の年始回りを済ませ、いよいよ今日からは本格的な実業開始です。と言っても、もう実質は例年になく、おとそ気分も早々に抜け仕事モ-ドに変換でき、まずは出足順調というところですが、何とかこの調子で進めたらと願っています。
 
あるメルマガに「自分らしく自分の道を進め!」と載っていました。山本周五郎さんの作品で「武道無門」という本があるそうですが、気が小さく皆から「臆病者」呼ばわりされている青年の物語です。以下その大体のあらすじです。
 
主人公は宮部小弥太。28歳の青年武士だが、武士というのは形だけ。度胸がなく、他人のけんかを見るだけで体中が震えるというほどの臆病者だった。

自分から戦いを挑んだり、責任ある立場についたりすることを避け、いつも逃げ回ってばかり。そんな自分の性格を変えたいと思い、いろいろ努力をしたが結局あきらめることになる。自分はいまのままでいい。自虐的に思い込んでいた。

しかし、そんな彼がある時、主君に抜擢される。主君自らが服装を変え、隣国の難攻不落の巨城を偵察に行くことに。その随行の2人のなかに小弥太が選ばれたのである。

"なぜ自分のような者が、そんな大事な役目を命じられるのか"――小弥太青年はとまどった。もちろん、断わるわけにはいかない。言われた通り、彼も商人に扮して、隣国へのお供をすることになった。

自分らしくいこう。自分らしくいけばいいんだ。道中、小弥太は、そわそわと落ち着かずおかしな行動を繰り返した。時々消えていなくなり、いつのまにか戻ってくる。隣国の城下町に入ってもその行動は続いた。そうこうしているうちに、3人は巨城に着いた。しかし偵察をしているところを見つかってしまう。

「怪しい奴」とばかりに取り囲まれ、ついに追いつめられてしまう。万事休す、となったそのとき、小弥太が「自分がご案内をいたします」と言うなり、駆け出した。 

小道から小道へ、路地から路地へ、抜けていった。そして1軒の店に入り、3頭の馬を牽いて出てきた。「早く、殿、早くこの馬に!」。 3人は馬に乗り、無事に逃げおおせることができた。

彼は万一の場合に備えて、逃げ道、抜け道をそっと調べ、馬の手配までしていた。自信にあふれた豪勇の人間であれば、前に進み、攻めることしか考えないかもしれない。 人一倍、慎重な彼だからこそ、そこまで細かく心を砕き準備することができたのである。

 
メルマガの筆者は上記の物語に示されるとおり、人間には多くの道があり、生き方があると説いています。それは会社という組織のなかにおいても同じで、他人と比較するだけでは社会の奴隷となってしまい、自分しか歩めぬ道を堂々と進むことこそ必要だと言われています。
 
要はあくまでも自分らしく、自分の生き方を貫きなさいということだと思います。また他人と比較するのではなく、昨日の自分との比較こそ大切だと指摘しています。十分考えさせられ、かなり説得力のある言葉ではないでしょうか。

2012.01.11

生涯現役 No.2133

昨年の暮れ、プロゴルファ-の杉原輝雄さんが亡くなられました。プロゴルフ界のドンと呼ばれた方で、1957年プロ入り後、54年間にわたって試合に出場し続け、生涯現役を貫き通した人です。
 
しかし98年に前立腺がんが発覚し、切れば試合に出られなくなるからといって、現役続行を決意して、外科的手術に頼らず、ホルモン注射などの投与治療をしながら現役を続けていたのです。
 
でも昨年3月には、リンパへの転移が見つかってしまいました。幸い、それから悪化はしていないということでしたが、治療に専念し、いつでも試合に出れるような準備をしていたのですが、とうとうそれも叶わず帰らぬ人となってしまったのです。
 
今でも思い出されるのがジャンボや青木選手の全盛の頃、時々クラブを投げつけたりしてマナ-の悪さを見せると、一緒にプレ-していた杉原さんが叩くなら自分の頭を叩けと、テレビでも歯に衣を着せぬ苦言を呈していたことです。
 
そのくらい、飛ぶ鳥を落とすような勢いだった両選手でも、この人だけは少しも遠慮せずモノが言えるくらい、やはり実力者であり、一目置かれていた存在だったのでしょう。
 
また同選手の周りにはユ-モアがいつも溢れていました。この病気が怖くないかと問い掛けられると、「怖いよ」と言っていながら、、「だから、聞きたいことがあったらなんでも聞いといてや。明日、電話してくれてももう出られへんかもしれんなんてこともあるかもしれへん。今のうちやで」と、いたづらっぽく語ってもいました。
 
そのくらい、プロ意識に徹していたのでしょう。ト-ナメントのティ-グランドではいつもギャラリ-に語り掛け、笑わせていました。ですからむっつりと愛想もなくプレーする若手には、一言言わなくては気が済まなかったようです。
 
石川遼くんがゴルフだけではなく、あれだけきっちりとしたコメントを語るのを引き合いに出し、ゴルフの腕で負けてもしゃべりでは負けないよう、若手にはもっとはっぱを掛けたかったみたいです。
 
また「病気のおかげで新しい出会いがあった」とも杉原さんは言っています。身に起きた不幸も不幸ととらえず、むしろ「成長するための糧」として前向きに捉えているのです。
 
こうでなければ、かつての青木・尾崎「AO」のあれだけの飛ばしに対しても、いくらアプローチ、パットの達人でいても、気持ちが怯んでしまって、とても太刀打ちできなかったのではないでしょうか。
 
そんな杉原さんが残したのは次の言葉です。ゴルフとは一人で戦うものだ。そしてゴルフとはボールを自分が止めたいところに止めるゲームだ、ということです。
 
「生涯現役」言葉ではたやすいかもしれませんが、杉原さんのように自ら実践し、貫き通すことは大変なことです。天国から注がれている、あの笑顔を思い浮かべることができるくらい、いつまでも忘れることのできない人です。ご冥福をお祈りします。

2012.01.10

どんど焼き No.2132

正月休みが終わった途端の3連休でしたが、いかがお過ごしだったでしょうか。相変わらずの貧乏暇なしの小生は3連休とは暦だけのもので、そのうちの2日間は会社に出ていました。
 
出勤前の8日・日曜日の早朝、いつものとおり、散歩で愛犬と国1バイパスの近くまで来ると、遠く田んぼの中に火の手が上がっているのです。一瞬、火事かなと思ったのも束の間、その日がどんど焼きが行われるのに気づきました。
 
時刻はまだ5時半前ですから辺りは真っ暗の中、遠く田んぼの中に組まれた3箇所のやぐらから、それぞれ勢いよく火が空に向かって放たれているのです。正月の松飾りやしめなわなどを家々から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、古来からの全国に伝わる正月の行事です。
 
またここで焼いた団子などを食べると、1年間風邪もひかず健康でいられるなどの言い伝えもあり、無病息災・五穀豊穣を祈る伝承行事でもあるわけです。
 
わが町内は歩いてすぐのところに海がある関係で、浜でこの行事が行われるのですが、バイパスから北側の地域はまだまだ広々とした田んぼが残っているお陰で、毎年その空き地をお借りしてやっているのでしょう。
 
すぐ近くまでは行きませんでしたが、遠くから眺めていても、なかなか風情があるものです。富士山をバックにカメラがあれば是非撮っておきたいところでしたが残念でした。
 
そしていつまでも立ちずさんでいるわけにもいかないことから、その場を後にすると、背中からパ-ン、パンと、おそらく骨組みに使っている竹のはでる(この言葉は方言なのでしょうか、はじけるという意味)音がいつまでも追いかけてくるようでした。
 
その帰り道、ふと、こうした伝統行事がいつまで続くのだろうかと考えたものです。田んぼなどの空き地はどんどん宅地や工場の敷地と化し、正月のお飾りなども簡素化されているからです。
 
またやぐらの組み方やいろいろ、そうしたノウハウを熟知しているお年寄りや年配の方も少なくなっていくからです。これは神社やお寺などに飾られる門松についても、同じことが言えると思います。
 
とにかく、できればいつまでも残してやりたい行事ですね。一説には「正月飾り」を燃やすということから、神様を空に送る、「正月の神様」が空に帰っていくという意味合いがあるみたいです。
 
年のはじめにあたり、人々の健康と無病息災、おまけに欲張って家内安全、五穀豊穣、企業繁栄を是非願いたいものです。追伸)辞書で調べたら”はでる”ではなく、爆ぜる(はぜる)というのが正しい表現みたいです。

2012.01.06

2012年のはじめに No.2131

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。昨年は大晦日まで出張工事で出掛けておりましたので、年末は細かなことが何もできず、年賀状も大晦日の夕方になって投函したくらいでバタバタでした。
 
でも社内製作にも追われていた関係で、私を含む出張組と、社内製作組に分かれていたわけですが、休みのない年末にもかかわらず、愚痴一つなく黙々と仕事に励んでくれた社員に、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
 
そんな社員の皆さんのためにも、少しでもこの会社にいて良かったと思ってもらい、もっともっと日常的に豊かになれるような会社を目指さなければと、改めて強く思ったしだいです。
 
それにしても穏やかな正月でしたね。元日の天気が心配され、初日の出が見れないのではないかと言われていましたが、風もなく日中は暖かい日差しが注ぐくらいの良いお天気でした。
 
そんな中、元日早々、恒例の近隣町内3チ-ムによる、新年親睦のソフトボ-ルの試合に出掛けたわけですが、ちょっぴり嬉しいことがありました。
 
と言ってもほとんど自慢話で恐縮ですが、何と今年早々に62歳になろうとしている私めが満塁で右中間を抜くホ-ムランを放ったのです。
 
年々、老いていくに連れ、ゴルフは飛ばなくなっているし、ちょっと歳を感じて自信を失くしかけていた自分だっただけに、自信復活にも繋がる、ちょっぴり嬉しい出来事だったのです。
 
まだまだやれる、そう思い直せるものでした。これはソフトボ-ルに限ったことではなく、これからの仕事に対しても同じことが言えます。
 
ついつい、世の中の景気のせいにしたり、不幸な震災が起こったことに理由付けしている自分が存在していたように思えます。でもそれではこれからの時代、生き残れないのではないでしょうか。
 
とにかく社員との絆を一層強くするためにも、今まで以上に精進に励み、工場の入口に掲げられている「選ばれる会社」を目指していきます。本年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。