会長の”三行日記”
2012.06.18
父の日に No.2229
ついにオウムの最後の逃亡者、高橋克也容疑者が捕まりました。1~2週間で逮捕できないと長期化する懸念があったのですが、さすがは優秀な日本警察の包囲網です。監視カメラの解析の技術などを聞くと、とても逃げ延びることなど不可能と思えるものです。
とにかくこれで警察の面目が少しは保たれたのではないでしょうか。さて昨日は父の日でした。母の日と違って、あまり自分には関係ないものと思っていたのですが、嬉しい誤算があった昨日でした。
というのも、母の日は周囲も大騒ぎをするためか、子どもたちはそれぞれが日頃の感謝の思いとばかり、何かしらプレゼントを彼女に届けていたのです。一方、もう一人の連れ合いの方には冷たいものです。今まで一度として、こちらはもらったことはありません。
そんなわけで、朝から工事で平塚に出張していたのですが、比較的順調に仕事も進み、家には夕方5時前には戻ることができました。家に戻ったところ、めずらしく3人の子どもたちが顔を揃えていました。
御殿場に住む長女も戻ってきていて、また結婚したばかりの次女も仕事が休みとのことで、そしていつもは休みになると滅多に家にはいない長男まで顔を揃えていたのです。
テ-ブルを眺めると、何やら宅急便が届いているのです。宛先が私の名前になっていて、送り主は長女夫婦の名前です。包みを開けてみると、ご覧のような名前入りの焼酎なのです。長女の旦那が私に気を遣って手配したのでしょう。
またつい先日結婚したばかりの次女からは、新婚旅行で買ってきてくれたという、ゴルフなどに提げていくバッグを頂いたのです。これも以前から私が欲しがっていた品物です。
そして社会人2年目となった長男からも、少し気恥ずかしそうに包みを渡されたのです。普段からもっとオシャレをしろとばかり、ポロシャツをいただいたのです。いくら最近、ボ-ナスをもらったばかりだと言え、嬉しい話です。
考えてみると、父の日に私には初めてのプレゼントとはいえ、3人ともある意味ではやっと落ち着いてきたのでしょう。昨年、そして今年と続けて嫁いでいった2人の娘、そして社会人2年目になってようやく、地に足が着いてきた長男と、精神的な部分に多少、余裕が出てきたものと思われます。
それにしても盆と正月がいっぺんに来たような、私への持て成しには嬉しくないと言ったら嘘になります。こうした子どもたちの成長が何よりです。8月に出産を控える長女が、もう少しで産休をとらせていただきます。
いよいよ私も遅かりし、おじいちゃんの仲間入りです。携帯の待ち受けに孫の写真を入れて嬉しそうに眺めている友人を、冷ややかな目で眺めていたものですが、こちらも少し怪しくなってきたものです。
2012.06.15
いかにしてなでしこは世界を制覇したのか その1 No.2228
今度のオリンピックでも金メダルを期待されている「なでしこジャパン」ですが、雑誌「致知」に、いかにしてワ-ルドカップを制覇できたのかを、代表監督の佐々木則夫さんに聞いていました。
今でもしっかりと思い出すことができ、一度も勝てなかったあのアメリカを破り、世界の頂点に輝いた優勝は、先制され、追いつく、また勝ち越されて突き放され、土壇場で追いつくといった、劇的な試合を制してものです。
そしてこの優勝は、東日本大震災で痛めつけられ、暗く落ち込んでいた日本に勇気と感動をもたらしてくれました。ヨ-ロッパのマスメディアは試合を評して「日本の監督はノンフィクションのスピルバ-グだ」と称えたくらいです。
ハラハラ、ドキドキ、そしてハッピ-エンドだったからです。また日本のスポ-ツ史上でも最高の勝ち方ではなかったかと言われています。そしてよく言われるのが、PK戦に日本が臨んだときのあの笑顔についてです。
佐々木さんはこれについて「こいつら、よくやっているな、という思いが湧いてきて、自然と表情がニコニコと和らいできた」と言っています。そして「本当のところは選手を和ませるというよりも、おまえらよく頑張ったという私の思いが出た表情だったのです」というのが真相のようです。
ですから監督に、妙な欲があれば笑えなかったと言っています。それともう一つ、キャプテンの澤さんが円陣を組んでいる中、スッと寄ってきて「則さん、ごめん」と言ってPKを回避したいと申し出たそうです。それで皆が「ずるい」と言って、また盛り上がったみたいです。
彼女は以前、2006年のアジア大会決勝でPKを外して負けて以来、一本もPKを蹴っていなかったそうです。「蹴りたくない」という言葉が本人から出た時点で、これは蹴らさないほうがいいと、監督は即座に判断したと言っています。
メンバ-にも「さっき澤がミラクルシュ-トでこの場を与えてくれたんだから許してやれ」と言って納得してもらったのです。この残り2分もない局面で澤選手が奇跡的に入れたシュ-トも、決して初めてではなかったとのことです。
北京五輪初戦のニュ-ジ-ランド戦でも、2-0でやられている時に、やはりああいうシュ-トを入れているらしいのです。人々がその時点では、あまりなでしこに注目していなかった時期だったのでしょうね。
とにかくW杯に出発する時は、見送りは報道陣も新聞記者が数名とカメラが数台しかなかったと言います。それが戻ってくるときにはあの騒ぎです。報道陣だけでも260人ぐらいが詰め掛け、成田空港始まって以来の数だったそうです。
まさに天と地ぐらいの差の扱いだったと言っています。この他にもまだまだ、人はどうやったら気持ちよく動き、成果を上げることができるのか、私たち経営にも通ずる話をふんだんに語られています。また次の機会で紹介させて下さい。
2012.06.14
思い出の五輪 No.2227
ロンドン五輪まであと45日を切った今日、マラソンは人生のドラマという記事に、今は遠い昔となってしまった東京五輪を思い出すことができました。
もう48年前になってしまったのですね。ちょうど私が中学3年生の時です。友人の家がこれに備え、カラ-テレビを入れたので、家まで押し掛け見せてもらった、あの開会式での日本チ-ムの赤と白のユニフォ-ムと、真っ青に澄んだ美しい空の色が忘れられません。
そのくらい鮮やかなものでした。その東京五輪で活躍した、多くの日本人選手の中で一番思い出に残っていたのが、マラソンの円谷幸吉選手です。
7万人が詰め掛けていたという国立競技場に入ってくるまでは、当時24歳の陸上自衛官だった円谷選手は2位を走っていました。大声援に押され、そのまま銀メダルかと思われたのですが、トラックに入ってからイギリスのヒ-トリ-選手に抜かれてしまったのです。
惜しくも3位になったというものの、堂々たる銅色に輝くメダルを獲得したのですから、円谷選手は胸を張れる立派なものです。抜いた銀メダリストのヒ-トリ-さんは現在79歳、ロンドン郊外でガ-デニングを趣味に、退職後の余生を静かに暮らしているそうです。
このヒ-トリ-さんが当時を振り返って、円谷選手はすごく疲れていたと言っています。また競技場で声援を送っていた円谷さんの兄も「見たことのないほど疲れていた」と述べています。
その責任感と日本中の人々から期待されていた使命感だけで、走っていたのではないでしょうか。レ-ス直後、円谷さんは「4年後のメキシコを目指す」と宣言しました。一方、東京で8位に終わった君原健二さんはレ-スの7日後、所属の陸上部に退部届を出したそうです。
日記には「やっと東京オリンピックという乗り物から降りた感じだ」と書いていたとのことです。それくらい重圧で苦しんでいたのではないでしょうか。そして君原さんは1年間、競技から遠ざかり、結婚もしたそうです。
円谷選手にも結婚を考えていた女性がいましたが、五輪を優先させたいという上官の意向で破談となり、けがも度重なって、ついにはメキシコ五輪目前の68年1月に、自らの命を絶ってしまったのです。
自殺を聞いて日本中に大きな衝撃が走ったのを、今でもはっきりと憶えているほどです。君原さんは「ここに2人の人生の大きな分かれ道があったような気がいたします」と述べています。
こうしてその円谷さんの思いと願いが乗り移ったかのように、後に迫る選手を振り切って、メキシコで君原選手が銀メダルに輝いたのでした。円谷さんは小学生の頃の親の教えを守り、走っているときには一度も後ろを振り返らなかったそうです。生真面目で人一倍、責任感が強かったのでしょう。
このようなドラマがまたロンドンで生まれるかもしれません。来る7月27日に開幕する、3回目のロンドン五輪というものの、日本としては初参加となるこの地での開催に、大いに期待したいものです。できれば私たち同様、子どもたち世代にも東京五輪のような自国での開催の、思い出創りができることを願っています。
