会長の”三行日記”
2011.01.18
エ-ジシュ-ト No.1939
昨年の大晦日の朝日新聞、「ひと」欄に、ゴルフのエ-ジシュ-トを700回達成したという人が紹介されていました。植杉乾蔵さんという、熊本県人吉市の87歳の方です。
エ-ジシュ-トとは自分の年齢と同じか、それ以下のスコアで1ラウンド回ってくることを言います。ですから通常のゴルフ場はパ-72か71ぐらいですから、アマチュアの領域では、少なくとも70歳を超えなければ達成しにくいものです。
従ってなかなかできないものですが、何とこの方はそれを700回も達成しているというから、驚異的な話です。記事によると、自動車会社を退職する55歳まで、プレ-は月に2回程度。外車販売を自分で始めると、連日ゴルフの誘いが舞い込んだそうです。
そして、そのうちゴルフ中心の生活となり、71歳の時に71で回って初の達成。80歳以降は年50回以上を重ねてきたとのことです。またベストスコアは78歳の時に出した70。力みのないスイングが持ち味で、最近の平均飛距離は200ヤ-ドと言われています。
87歳で200ヤ-ドも飛ばすというのも、また凄い話です。もっとも200ヤ-ド飛ばさなければ、70~80ぐらいの良いスコアでは上がれないものと思われますが...
またこうした年150ラウンドとも言われる、元気なゴルフ人生を支えるのが、元看護師で調理師の資格を持つという、69歳というちょっと歳の離れた奥さんの存在です。料理は徹底して薄味で、漬物の塩も抜くそうで、塩抜き砂糖抜きで、鬼嫁と呼ばれてもへこたれません。
ゴルフのプレ-もいつも一緒ということですから、仲も特別良いのでしょう。羨ましい限りです。その植杉さんへの周囲の期待は1000回達成とのことです。
この人なら元気で健康でいてさえいれば、それも不可能な数字ではないかもしれません。その極意は「細かいことは考えない。パットも入らないのが当たり前と思えばイライラせんよ」とのことらしいです。
また年齢が高くなればなるほど出しやすいことから、この方の言われる言葉がふるっています。「う-ん、トシはとりたいねえ」1回もたぶん達成できないと思われる自分にとっては、何とも憎い、お言葉です。
2011.01.17
我が国の不安な行方 No.1938
あの大震災から16年の月日が過ぎ去りました。その年に生まれた方がもう高校生になっています。他人事ではなく、いつやってくるか判らないだけに、その教訓を活かさなければいけないと思っています。今年が17回忌にも当っていることから、犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
さて菅内閣の改造があり、その目玉であった仙石さんが抜けてしまいました。党代表代行に新たに就任とのことですが、このポストもお飾りのようなものでしょう。
仙石さんが抜けてしまった菅内閣は果たして大丈夫なのでしょうか。というのも実質は仙石内閣のようなものと言われていたからです。菅総理は長いこと野党にいたせいか、人の批判や他人の作った政策への突込みには長けていたものの、自分で作り出したり、その調整能力には疑問視されているからです。
それからもう一つ、納得できないと巷でも多くの声が聞かれるのが、与謝野さんの経済財政担当相就任です。この人、前回の衆議院選で反民主を叫び、東京の地方区に敗れて、比例で復活当選を果たしたのです。
ですから当時いた自民党のお陰で、復活当選し議員となれたのです。またその同じ選挙区で与謝野さんに勝ったのが、今回その経済財政担当相から経済産業大臣にポスト変更となった海江田万里さんですから何とも皮肉なものです。
これなども海江田さん自身が言われているとおり、「人生は不条理ということです」との言葉を裏付けるようで、これから先の国会運営でも、自民党はじめ、抜けた「立ち上がれ日本」など野党の大きな標的となって、新たな問題人物になるような気がします。
またそれと与謝野さんと言ったら、増税論者であることも気になるところです。これで消費税アップとなる動きが加速することになるのではないでしょうか。
とにかく、この第2次菅内閣の組閣も、一先ず野党の矛先をかわそうと目先を変えただけのようで、この先政局がスム-ズに進むものとも思えません。
そうすると、我が国はこの先、いったいどのように進んでいくものでしょうか。今の高齢者が将来的不安でお金を使えないことと同じように、国民の大多数にまでそれが及んでいくようで、何とも先が見通せない不安な気持ちが募るものです。
2011.01.14
ちょっと良い話part69 No.1937
今年初めてのちょっと良い話です。残っていた留守番メッセ-ジという、泣かされるいい話を見つけましたので紹介します。
私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。「私にとって、澪は本当の娘だからね」ドキリとした。
母と私の血がつながっていないことは、父が再婚してからの18年間、互いに触れていなかった。再婚当時幼かった私にとって『母』の記憶は『今の母』だけで、『義理』という意識は私にはなかった。けれど、やはり戸籍上私は『養子』で、母にとって私は父と前妻の子なので、母が私のことをどう考えているのか、わからなかった。
気になってはいてもそのことを口に出した途端、互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。
母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。私はその後姿を見て、自分がタイミングを逃したことに気がついた。そして、「私もだよ、お母さん」すぐそう言えば良かったと後悔した。
結婚式当日、母はいつも通りの母だった。対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。母は何かを準備していたらしく、司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、マイクを通して「お願いします」と言った。
すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。「もしもし、お母さん。看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。お母さんに会いたい。お母さんどこ?澪を迎えに来て。澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」
そこで声はピーっという音に遮られた。「以上の録音を消去する場合は9を…」と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。
車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。
シーンと静まりかえる式場で、母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、まっすぐ前を見つめながら話し始めた。「私が夫と結婚を決めたとき、互いの両親から大反対されました。すでに夫には2歳の娘がいたからです」
「それでも私たちは結婚をしました」「娘が7歳になり、私はこのままこの子の母としてやっていける、そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです」
あの事故は、母と一緒にいるときに私が勝手に道路に飛び出しただけで、決して母のせいではなかった。「私は自分を責めました」「そしてこんな母親失格の私が、娘のそばにいてはいけないと思うようになり、娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。今思えば、逆の行動をとるべきですよね」
そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。「そんなとき、パートから帰った私を待っていたのは、娘からのこの留守番電話のメッセージでした」「私は『もしもし、お母さん』。このフレーズを何度もリピートして聞きました。その言葉は、母親として側にいても良い、娘がそう言ってくれているような気がしたのです」
初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。「ありがとう、澪」隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、泣きながら母を見ていた。きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。私も知らなかった。
司会者が私にマイクを回した。事故は母が悪いわけじゃないことなど、言いたいことはたくさんあったけれど、泣き声で苦しい私は、言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。
「私もだよ、お母さん。ありがとう」
血の繋がり以上の深い絆が感じられ、何とも言葉がありません。「生みの親より育ての母」そのままですね。朝の連続ドラマ「てっぱん」でも、育ての母に当たる安田成美さんがいい役を演じてます。
与えられた絆はもちろん守っていかなければいけませんが、やはり自分自身で大きく育んでいかなければいけないものです。
