会長の”三行日記”

2011年02月

2011.02.10

ひとりじゃない No.1954

人生は出会いから何を学ぶかによるもので、目標に向かって歩き続けることである」先日のある会で、友人が改めて言って頂いた言葉なのですが、人の繋がりがどん底の自分を支えてくれたという話です。
 
過日のワ-ルドカップでの8強進出をかけたPK戦、ご存知の通りPKを外してしまったのは駒野友一選手です。この駒野さんが失意のどん底から這い上がることができたのは、自分がひとりじゃないと気付いたからです。
 
そのPKは本人が自信を持ってゴ-ル左上に蹴ったものです。でも無情にもクロスバ-をたたき、ゴ-ルのはるか上に跳ね上がってしまいました。そしてパラグアイの5人目がゴ-ルを決め、日本のW杯8強進出の夢は潰えたのです。
 
泣きじゃくった自分に、チ-ムメ-トは代わる代わる肩を抱き、胸を張って日本に帰ろうと励ましてくれました。でもロッカ-ル-ムに戻っても、皆に申し訳なく涙が止まりませんでした。
 
そして2日後、日本に帰ったのですが、気持ちはまだ下を向いていて、空港での出迎えてくれた時や記者会見の席でも、その視線が怖かったくらいです。「みんな怒っているに違いない」そう思いこんでいたのです。
 
会見後、所属のジュビロ磐田が用意してくれた車に乗り込み、スタッフから差し出された書類に、車内のわずかな灯りを頼りに目を通しました。
 
そこに書かれていたのは、「胸を張って帰って来て」「私たちはあなたを誇りに思います」「勇気をもらいました。ありがとう」という、サポ-タ-からの温かいメッセ-ジで、その数は2000を超えていました。
 
お陰でようやく「もう一度前を向いてみよう」と次に進める気になったのです。でも誰もが羨むそのサッカ-人生が決して順風満帆だったわけではありません。
 
中学3年の秋、父親を亡くし、進学予定だった地元の私立強豪校をあきらめ、お金の掛からない寮のあるサンフレッチェ広島ユ-スを選びました。そしてその後は左ひざの靭帯を切り、その直後エコノミ-症候群にも掛かったり、鎖骨の骨折、失明の恐れがあるブドウ膜炎など、度重なるケガや病気に悩まされたのです。
 
そんなくじけそうになった時、自分なりに努力して乗り越えてきたのですが、そればかりではなく、ユ-ス時代、洗剤などがぎっしりと詰まった送り続けてくれた母や、後に奥さんとなる映己子さん、またトレ-ナ-、医師、チ-ムメ-ト、ライバル、サポ-タ-など、多くの人たちに支えられて今日があるわけです。
 
またザッケロ-ニ監督になってからでも、初出場の昨年の韓国戦、右腕を骨折し、ピッチに立てないままリハビリに励んでいる現在です。このように災難続きのようですが「自分はひとりじゃない」と思えば、少しも不安や焦りはないとのことです。
 
以前にもこの欄で触れた駒野選手ですが、無縁社会と呼ばれるような今日に、やはり人の繋がりの大切さを知らされる話です。「自分はひとりじゃない」と思えば、もっと前向きに明るく生きていけるのではないでしょうか。
 
一昨日の講演でも、故林家三平師匠の遺言が紹介されていました。「明るく元気で一生懸命」やはりこれですね。

2011.02.09

アルツハイマ- No.1953

日曜日の昼間、暇にまかせてテレビのスイッチをつけていると、アルツハイマ-の病を扱ったドラマをやっていました。萬田久子さん演じる「あの海を忘れない」という、若年性アルツハイマ-病を支える物語です。
 
少し年上の恋人を持つ息子は、ある日おかしな言動をいろいろと繰り返す母親の姿に直面します。アルツハイマ-らしきその事実を、なかなか受け入れることのできない心の葛藤に悩まされながらも、終いには恋人に別れを告げ、母親と一緒に住んでその面倒を看ることを決心します。
 
12歳も年上とあってその訳も聞き出せないまま、理由も知らされず離れることになった年上の恋人は、やがてその事実を知り、共に支えていきたいと決意して二人で母親の面倒を看ることになります。
 
こうした幸せの矢先に潜んでいた、アルツハイマ-という現実の問題を若村麻由美さんたち、出演者の熱演で視聴者に問い掛けていたドラマでした。
 
まさにそれはこれからの高齢化時代を暗示しているようで、自分達が直面した場合、どう対処していくのか、考えさせられることが少なくなかったように思えます。
 
アルツハイマ-とは脳の神経細胞が減るために起こるもので、患者の多くが65歳以上の老人性アルツハイマーであるのに対して、40代~50代に発症するのが若年性アルツハイマーと呼ばれています。
 
これは痴呆の症状を伴う病ですが、詳しい原因は未だに解らず、完治に至る薬や治療法は十分解明されていないとのことです。ただ伝えられるところによると、かかりにくくなる要素として次の3つが予防効果として認められているとのことです。
 
① 1回20分以上の有酸素運動を週に2回以上行うこと
② 話し相手を持ち、会話を努めて行うこと
③ 生活習慣病にならない食生活を心がけること

 
またこのアルツハイマ-にはだれでもなる可能性はあると言います。そう言えば、私も以前に比べて人の名前が直ぐ出てこなかったり、なかなか思い出せない言葉や事柄がぐっと増えたような気がします。気をつけなくてはいけないものです。
 
昨日の夜も法人会5支部新年合同研修会があり、講師の漫才師・林家カレ-子さんが、やはりボケ防止で次の4つを挙げていました。①一生懸命に歩く ②社会参加をする ③生涯学習 と、やはり同様なことのように思えます。
 
そして4つ目に挙げたのが「帽子をかぶる」ということです。ボケ帽子(防止)...お後がよろしいようで。

2011.02.08

家族の後押し No.1952

プロ野球のキャンプが始まり、今年は斎藤佑ちゃんが人気を独占しているようですが、もう一人の国民的ヒ-ロ-、ゴルフ界のアイドル・石川遼君について少し触れてみたいと思います。
 
ご存知の通り、今年も彼が最もあこがれているゴルフの祭典、マスタ-ズト-ナメントから招待状が届きました。何しろこの招待がなければどんな実力者だろうと、一切出場できないわけですから夢の祭典とも言われる所以です。
 
これに向け、本番前6試合のアメリカツア-出場の為、先週末早々にアメリカへと飛び立っていきました。ですから4月のマスタ-ズまではアメリカに滞在し、腕を磨きながら本番に備えるわけです。
 
このマスタ-ズへの思いは私たちの想像をはるかに超えるくらい、強いものがあるようです。何しろ高校時代、プロ転向を促したときも、父親の反対があったものの、マスタ-ズで勝ちたいから早く上手くなりたいとの思いで、必死になって懇願したとのことです。
 
これは最近、父親の勝美さんが講演会で明かしたらしいのですが、他にも親子の知られざるエピソ-ドが紹介されていました。それによると、インタビューの受け答えやスピーチに定評のある彼も、小さな頃から母親より読み聞かされたイソップ童話や、「野菊の墓」「伊豆の踊り子」などの本を読んだことにより養われたのではないかと言われます。
 
また、ねづっちではないのですが、親子の間でなぞかけが盛んに行われていたようです。「~とかけて、~ととく、その心は?」といった繰り返しが、人の心を捉える言葉を生み出していったのでしょうか。
 
また遼君の初ラウンドは小2のとき矢板CCで赤ティから134。でも小3では82、83くらいで回ってくるようになったとのことです。そして日本のトップクラスに上り詰めた今でも一番怖いのがこの父親で、また一番尊敬している存在だとも言われています。
 
中日クラウンズ最終日に驚異的な58というスコアを出したのも、「そんなパットをしていたら、お前のファンは減るぞ」と、この父親が一喝したことから始まったのは有名なエピソードです。
 
とにかく、2年連続という予選落ちを経験して、3度目の正直と挑む今年のマスタ-ズです。もちろん、ここまで来れたのも、この素晴らしい家族の後押しがあったからこそのことですが、さらにもう一押ししてもらい、いつの日か日本人初の夢の扉を開いてもらいたいものです。
 
月曜の早朝にアメリカから送られてくる画像に、日本人が誰もいないのはとても寂しいことです。先日のサッカ-のアジアカップ同様、日本人の多くが寝不足になるような日が来るのを是非願いたいものです。

2011.02.07

失敗を怖れるな No.1951

大相撲の春場所が中止となりました。やはりしっかりと疑惑を解明してからでないと、ファンを惹きつけることはできないでしょう。その信頼を取り戻すことが何よりも先決です。
 
また当初の予想通り、名古屋では河村陣営の圧倒的な勝利となりました。市民目線に立って、今までにないやり方での施政が求められているのでしょう。これで東国原前知事の去就が見ものです。
 
さて世界の建築家・安藤忠雄さんが新聞に次のように書かれていました。その要約を紹介しますが、かなり的を得た見識に、これからの時代、真剣に考えていかなければいけないことのような気がします。
 
失敗を乗り越える力を持てというメッセージを贈って、現在の若者たちに、そのどっぷりと浸かっているぬるま湯から抜け出よと、以下のように言い放っていました。
 
笑えない話ですが、外出先で具合の悪くなっているおじいさんが若い人に助けを求めた。おなかが痛い、心臓が苦しいと言ったら、「ああ、そうですか。頑張ってください」とだけ言って、その場から立ち去ってしまったそうです。

そんなバカなと思いましたが、それだけ今の若者は他者に対して無関心で、普段から余計なことには関わらないようにしながら生きているということでしょう。

だから人の命にかかわるようなことが目の前で起こっていても、その場から遠ざかることしかできない。それというのも団塊世代にあたる、今の若者の親たちが、子どもには失敗のない人生を送って欲しいという思いから、過保護に育ててきたことが原因ではないかと思います。

(中略)私は数年前に、東大の入学式で祝辞を頼まれて出席した時、絶望的な気持ちになりました。東大では3000人の入学生に対して、保護者が6000人来るんですよ。

「これから懸命に学んで自立していけ」と、親が子どもから手を離す時なのにいつまでも一緒にいる。私は2階席にぎっしりと並んでいる親たちに向かって「今日は子どもの自立の日だから、2階席の方は出て行ってください」と言いました。(笑)

若い人は失敗を怖がりますが、それは、生まれてからずっと過保護に育てられ、与えられた道の上だけを歩んできたからです。自分はぬるま湯につかってきたんだと気付かなければなりません。

 
仕事は、失敗してそれを克服するから面白いのです。仕事力とは「失敗を乗り越える能力」のことですから。
 
安藤忠雄さんはこう言って、日本の元気のない現状を残念に思い、何とかできないものかと焦りさえ感じています。でも日本人の底力は決してこんなものではないと、最後に付け加えられていました。
 
言われるとおり、10人のうちの1人でも2人でも、自分がぬるま湯につかっていることに気付いて、そこから抜け出す努力をして欲しいものです。何しろ、これからのニッポン、そうした若い人の力に支えられていくしかないわけですから...

2011.02.04

八百長に揺れる大相撲 No.1950

節分も過ぎ、暦の上では今日から春です。昨日のニュ-スでは、あちこちの神社で豆を撒く著名人が紹介されていました。そんな中、横綱・白鵬関などお相撲さんの姿も少なくありませんでした。
 
この相撲界にまた一大事が生じてしまいました。八百長相撲をほのめかせるメ-ルの内容が暴かれたのです。伝えるところによると、この疑惑は先の野球賭博問題で、関係者から押収された携帯電話に残っていたことから浮上したものです。
 
そして今日のニュ-スでは名前の挙がった力士のうち、既に3人がその関与を認めたというのです。こうなると相撲の世界では、八百長が実際に行われていたということになります。
 
以前からその疑惑は週刊誌等で大きく騒がれていました。当時現役の力士だった板井さんなどの証言もありましたが、協会はその都度、事実無根として一切認めず、何らとり合いませんでした。
 
それが今回で根本から崩れ去ったのです。さあ、この先どうなっていくのでしょうか。ところでこの相撲協会は財団法人として、法人税等免除の優遇を受けているわけですが、それも公益法人として認められていたからです。
 
たまたま昨日も所属する沼津法人会が、新公益法人化に向けて動き出していることから、委員会とそのセミナ-が開かれ出席してきました。セミナ-によると、平成20年12月1日に公益法人制度改革関連3法というものが施行され、財団法人や社団法人が今までの制度から、新しい形に生まれ変わらなければなりません。
 
それは天下りの優遇などを抱える一部法人の体質や、無駄な税制の見直しを図る意味で行われるものですが、公益性を認められるのには18の厳しい基準をクリヤ-していかなければなりません。
 
そしてその認可をとりつけ、平成25年11月30日までに移行していかないと強制解散となり、いかなる財産も没収ということになるわけです。こうした意味からも、財団法人として今までぬくぬくとその温床に浸っていた相撲協会も、他人事ではないはずです。
 
こうした膿をすっかり取り払い、我田引水の甘やかされた体質を改め、万人に認められる公益性を証明しないと、新たな公益財団法人に移行できないからです。
 
もっとも、日本の国技としても位置付けられていることゆえ、お取り潰しにはならないでしょうが、多くの同様な団体からの監視の目もあることから、ごまかしはできないはずです。
 
改めてここでしっかりと襟を正し、外部の監査人を交えた新たな組織で、協会を立て直していかなければならないものと思います。
 
それにしても、今回の事件から、自分の携帯で一度は消したはずのメ-ルの内容が、実際には復元できることを初めて知りました。悪いことはできないものですね。

2011.02.03

ちょっと良い話part71 No.1949

またまた、ちょっと良い話を見つけましたので紹介します。おばあちゃんの緊急電話という、NTT西日本のコミュニケ-ション大賞に選ばれた、グランプリ作品ですが長文のため途中一部省略してあります。
 
彼に初めておばあちゃんを紹介されたのは、十九になる春だった。玄関先で出迎えてくれたおばあちゃんに挨拶した。明治生まれのおばあちゃんは、思っていたよりずっと大柄で、体格のいい彼はおばあちゃん似だと思った。おばあちゃんは、「チヅルはんと言うんか。」と、ニコニコして言った。

「いえ、チヅコです。」と、訂正したが、それを無視するかのように、おばあちゃんは中へ入ってしまった。きょとんとしている私に、彼が「気にしないで。」と、二階へ案内した。

彼とは同学年で、級友を通じて知り合い、お互い恋が芽生えて交際するようになった。油絵を描く彼と芸術的な雰囲気に包まれて談笑していると、突如バタンと戸が開けられた。驚いて振り向くと、おばあちゃんが小さなお盆を両手に持って仁王立ちで立っていた。お盆の上には、ティーバッグのひもが垂れたカップが二個載せられている。

「バァちゃん、唯でさえ脚が悪いのに…。」彼がおばあちゃんを気遣った。目の前に並べられたカップのソーサーには紅茶がかなり零れていた。おばあちゃんが階段の手すりを掴まりながら持って来てくれたと思うと、申し訳なく思ったが、とても嬉しかった。疲れ果てたおばあちゃんはへなへなと座り込み、私が帰るまでそこに座っていた。

「バァちゃん、よっぽど嬉しかったんやなぁ。オレの家、誰も来んからなぁ。お客さんが嬉しんや。バァちゃん、オレがおらんかったら、いつも独りぼっちやからなぁ。」彼が送ってくれながら言った。 

「じゃあ、私、ちょくちょく遊びに来るわ。」 それからというもの、私は頻繁におばあちゃんに会いに行った。クッキーを焼いたり、ケーキを作っては持って行った。おばあちゃんは、その都度、私の手を握って同じ昔話をした。私はそれをフンフンと、何十回も頷いて聞いた。

おばあちゃんは夫を早くに亡くし、残された二人の幼子を女手一つで育て上げてきた。行商から始め、田舎から大阪に出て、うどん店を持つまでになった。孫ができてからは、引退し、子守をするようになった。彼の両親は、おばあちゃんの後を継いで、その店を切り盛りしている。

そんな話を聞き、カギッ子として育った私は、おばあちゃん子で育った彼を少し羨ましく思った。おばあちゃんは、相変わらず私を「チヅルはん」と呼び、孫のように可愛がってくれた。

しかし、一年ほどして彼と私は、別れた。些細な事で喧嘩するようになり、彼への不満が募っていた。社会人として働き出した私の目に、彼が幼く見えた。 それから瞬く間に一年が過ぎた初冬、突然、おばあちゃんから電話が掛かってきた。

「剛士が交通事故や。病院は、○△や。直ぐに行ったって!」「えっ!? でも私、もう一年も前に別れてるし……。」 私の言葉を打ち消すように、おばあちゃんはガチャンと電話を切った。

一瞬、迷った。久し振りに聞くおばあちゃんの声。初めて聞くおばあちゃんのドスの利いた声……ただ事ではない。逆らえない……。命令されるまま、病院へ行った。

CTスキャンの台に乗せられ、全身を調べられている彼を見た。幸い、命に別状なく、左足骨折、一ヶ月の入院と診断された。私の姿を見て驚いている彼に、事情を説明した。彼は素直に喜んでいた。そして、何度電話をしようと思い、受話器を取った事かと、打ち明けてくれた。

私たちは、自然にこの一年間の空白が無かったように、普通に喋っていた。私は、彼が退院するまで毎日見舞い、おばあちゃんにも会いに行った。「おばあちゃんの迫力には負けたわ。おばあちゃん、カッコイー!」

「そうか。」おばあちゃんは笑っていた。私は、よたよたと頼りなげに歩くおばあちゃんの後ろ姿を見ながら、イザという時の明治女の気骨を見たように思った。それから半年、またいきなり、「嫁に来えへんか。」おばあちゃんからプロポーズされた。

私の横にいた彼の方がびっくりしていた。「オレより先に言うなよ。」 でも、私は返事した。「はい。」 こうして私は彼の元に嫁ぎ、今年で三十年になる。

おばあちゃんは、私が嫁いだ二年後、ひ孫の顔を見て天国へ旅立った。おばあちゃんがあの時、緊急電話をくれなかったら、今の私の幸せはなかったように思う。ありがとう、おばあちゃん。

 
二人の恋のキュ-ピットがこのおばあちゃんだったわけです。紅白出場からまたまた注目を浴びている「トイレの神様」もそうですが、私たちは先人から教わることが少なくありません。そういった意味からも、もっとその方たちの力を引き出せるよう、人に優しい社会を築いていきたいものです。

2011.02.02

春の訪れ No.1948

早いもので1月はもう過ぎてしまいました。厳しい大雪で日本海側は大変なことになっていますが、比較的恵まれている太平洋側では、そろそろ春の訪れを感じさせる話題が出てきています。
 
1つはプロ野球のキャンプが昨日から始まったことです。多くの球団が押し寄せるキャンプ地・沖縄では、斎藤佑ちゃん効果で大いに盛り上がっていますが、所属する日本ハムが沖縄県内に及ぼす経済効果は、何と例年の2~3倍の約15億円とも言われています。
 
たった一人の加入でこうも違うものでしょうか。凄いものです。大事に育てていきたいものです。そしてもう1つの話題は、春は選抜からと言われているとおり、選抜高校野球の出場校が決まったことです。
 
我が県でも今年は出場校が1つ決まりましたので、大会が楽しみです。そんな中、何と創部1年目で全員が1年生という、岡山代表の創志学園が選抜出場を果たしました。
 
文句なしの史上最速でのスピ-ド出場なのですが、それでは野球学校と言われる、それだけを目指して来た学校ではないかと思われがちですが、どうやらそうでもないみたいです。
 
その歴史は1884年創立と古く、ずっと女子校だった伝統校とのことです。そして2010年に普通科ができたことにより野球部を創設し、部員は中学時代無名の選手ばかりだったそうですが、猛練習に耐えた結果、昨秋の中国大会で準優勝を果たしたのです。
 
このチ-ムの監督が96年のアトランタ五輪で、女子ソフトボール日本代表のヘッドコーチを務めた長沢さんという方です。この人は2005年にも当時監督だった鹿児島の神村学園でも、やはり創部3年目で選抜準優勝という、輝かしい成績を収めています。
 
やはりそれなりの手腕を持っているものと思われます。そしてこの創志学園は学校のグランドが対角線50メートルしかない狭いグランドだと言われています。ですから野球漬けの恵まれた環境ではなく、練習環境のハンデを克服したとも言えるわけです。
 
また打撃マシンもないとのことですが、もう1校、21世紀枠で選ばれた秋田・大館鳳鳴高校と併せ、決して練習環境の善し悪しだけではないことを感じさせます。
 
創立113年目を迎える伝統校である大館鳳鳴高は、平日の練習は午後7時までで、短い時間でも練習を工夫しながら文武両道を実践してきた学校だと伝えられています。また雪の深い地域ですから、冬の間は除雪ボランティアにも励んでいる姿が評価されたと言われています。
 
こう聞くと、同じような環境にある我が母校など、練習は同じように短いかもしれませんが、グランドは広く打撃マシンもあります。それに冬の間でも雪がほとんど降らないわけですから、ずっと環境には恵まれているとも言えるのではないでしょうか。
 
こうした意味からも、母校も他山の石とはせず、創意工夫を持って躍進してもらいたいものです。またそれを願っている人たちが少ないだけに、自覚を持って是非前向きに取り組んでいってもらいたいものです。

2011.02.01

中学生の発明 No.1947

過日のテレビで、中学生が発明した装置が東京・築地市場で使用されているのが紹介されていました。ご存知のように、この築地市場内は混雑している為、その接触事故が頻繁に起こり、少しでもそれを防ぎたいということからです。
  
この装置は馬のひづめを思わせるようなもので、音の出るものですが、当時中学生だった藤原君という子が発明しました。使用後、市場関係者での評判は上々で悪くないということです。
 
多くの人たちや車が往来する築地市場では、荷物の運搬に小型運搬自動車が使われています。そして問題となっているのはこの新型タイプで、二酸化炭素削減の為、ガソリンから電動式に変えましたが、唯一の難点はこの電動車がほとんど音がしないことです。
 
このため、歩行者が車に気がつかず、車との接触事故が頻発しているというのです。発明装置は元々低速走行で音の小さいハイブリッド車用に考えられたものです。
 
タイヤの遠心力を利用し、回転することで、中の玉が動いてカチャカチャと音が鳴り、高速回転になると、玉が外側に張りつき、音が出なくなるという仕組みです。
 
市場で使われているのは、これが少し進化して、棒のようなものをひし形のような形に直し、小型運搬車用に改良したものです。
 
また音も分かりやすく特徴的なもので、取付もタイヤにはめ込むだけという簡単なものになっています。その結果、関係者の間でも評判は良く、今までの音楽によるものより、ずっと効果的だと言われています。
 
それでも発明した当事者本人は、満足し切ってはいない様子で、テスト段階のためこの先どうなるか複雑な思いでいるようで、既にもっと先を見据えているとのことです。
 
なかなか頼もしい話ではないでしょうか。こういった若い人たちの中に、新しい物を生み出す動きがあるのは何よりも心強いことです。
 
必要は発明の母である」とも言われています。若い世代にこのような人がどんどんと出てくれば、暗いニッポン、もう少しが明るく生まれ変わることができるのではないでしょうか。